赤松館を建造した藤崎家五代目当主藤崎彌一郎を中心に、その妻アサと料理研究家の娘トミ、六代目をついだ彌熊とその妻ツネを紹介します。
藤崎彌一郎
嘉永4年(1851年)11月15日八代郡豊原村上野東四郎の二男として出生。
安政6年(1859年)12月5日藤崎家に入籍。
明治2年(1869年)肥後細川藩の藩兵として京都御所警備に赴く。
明治8年(1875年)養父彌十のあとを継ぎ藤崎家五代目の当主となる。横井小楠の高弟、竹崎茶堂の日新堂に学び、書を土肥樵石に学ぶ。
明治23年(1890年)徳富蘇峰が「国民新聞社」を創立した際に、その資金援助を行う。(注1)
明治26年(1893年)「赤松館」建造開始。
明治27年(1894年)肥後実学党の流れを汲む改進党員として田浦村出身の最初の県会議員となり、叉、郡会議員を多年に亘り歴任する。
この間、文教・福祉事業に金穀を寄贈し表彰されしこと無数。(注2)
大正7年(1918年)7月27日没、享年67
藤崎彌一郎は細川藩の御用窯であった高田焼の上野家から田浦の藤崎家に、養子として入籍します。田浦の名家であった藤崎家を継ぎ、その手腕を発揮し、熊本県南でも有数の大地主として成功を収めました。徳富蘇峰に理解を示し、国民新聞発行のための資金の貸し出しを行っています。このときの保証人が同志社大学の設立に力を注いだ新島襄でした。
「赤松館」はこの彌一郎の手により藤崎家住宅として、また来客をもてなす迎賓館として建造されました。
注1)「蘇峰自伝」徳冨蘇峰
注2)「竹崎順子」徳冨蘆花
藤崎アサ
彌一郎の先妻は五人の娘を残し病死したため、玉名郡南関町の旧家江上家より江上アサを後妻として迎えます。南関の江上家は肥後細川家の重臣であり、戦国大名の流れを汲む家柄で、その娘のトミの思い出話によるとアサは「この由緒正しい家の血筋を引くものはみな、世の中を正しく渡り、家名をあげなければいけない」とつねづね語っていたそうです。
アサは明治10年(1877年)の 西南戦争の時に熊本協同隊を率いて八代で戦死した宮崎八郎の許婚者であったといい(注3)、八郎の弟である宮崎民蔵・滔天はよく赤松館を訪問していたそうです。
注3)「翔ぶが如く」司馬遼太郎
江上トミ
江上トミは昭和期のテレビ普及とともに活躍した料理研究家で、その生家がここ藤崎家住宅「赤松館」てす。
明拑32年(1899年) 葦北郡田浦村に藤崎彌一郎の六女として生まれる
明治38年(1905年) 田浦尋常小学校入学、母アサの実家・玉名郡南関町の江上家に養女として入籍
明治45年(1912年)熊本高等女学校入学
大正2年(1913年)熊本高等女学校退学、後、県立第一高等女学校に入学
大正8年(1919年)八代郡植柳村、山田漸の次男巌と結婚
大正15年(1926年)巌、フランス長期出張を命じられる
昭和2年(1927年)夫の赴任先フランスに渡り、パリ・コルドンブリュウ料理学校に入学、2年後卒業
昭和5年(1930年)長男種一誕生
昭和6年(1931年)渋谷自宅で料理教室を開設
昭和9年(1934年)夫の任地、小倉で「江上料理研究会」を開設
昭和21年(1946年)福岡市新天町に小店舗を開き、かぼちゃシューマイを販売
昭和24年(1949年)福岡市南薬院に「江上料理高等学院」を開設
昭和28年(1953年)戦後初めてのフランス訪問、各地を歴訪。コルドンブリュウ料理学校に再び席を置き研鑚に努める
昭和30年(1955年)東京市ケ谷に「江上料理学院」を設立、爆発的な料理ブームのきっかけを作る
昭和31年(1956年)日本テレビが、本邦初の料理番組「奥様お料理メモ」を放送、レギュラー出演となる
昭和32年(1957年)NHKの「今日の料理」番組が始まり、レギュラー出演となる
昭和33年(1958年)清宮貴子内親王の料理指南役となる
長男種一が、佐賀県有田町・香蘭社の深川栄左衛門の五女栄子と結婚
昭和50年(1975年)秋の叙勲で藍綬褒章を受賞
昭和53年(1978年)田浦町名誉町民第一号となる
昭和55年(1980年)東京都内の病院で死去、享年80、正六位勲五等宝冠扇:を受賞
江上トミは藤崎彌一郎の六女として藤崎家住宅「赤松館」で生まれましたが、母方の江上家を継ぐため江上家の養女となりこの赤松館で母アサから料理・作法を学びます。後に料理研究家として大成する礎がこの赤松館でした。
藤崎彌熊
トミの弟で藤崎家の六代目を継いだ代彌熊は、若くして英国ケンブリッジ大学に留学し、田浦村長や初代田浦町長を歴任し地元の振興に努めました。
明治35年(1902年)5月25日出生
大正7年(1918年)父・彌一郎のあとを継ぎ、藤崎家六代の主となる
九州学院中学で初代院長・遠山参良先生の薫陶を受け、
慶応義塾大学に於いては小泉信三先生、板倉卓造先生の教えを受ける
この間、地元の振興のため「夏季学校」を開催。熊本農学校の教頭をつとめた遠藤万蔵や、農聖とよばれた松田喜一らを講師として招き、政地元の農業の発展に寄与した。
昭和3年(1928年)英国ケンブリッジ大学へ2年間遊学(昭和3年~5年)
帰国後、母校九州学院中学で公民科の教鞭を取る
太平洋戦争中は県翼賛会・壮年団・教育会組織等の要職にあり、戦後の公職追放令により追放される
昭和27年(1952年)追放解除後、田浦村教育長に就任
昭和30年(1955年)田浦村村長に就任
昭和33年(1958年)町制施行に伴い初代町長となる
町の殖産興業を生来の使命と信じ、8年間の任期中「甘夏みかん」の主産地形成に尽力又、昭和10年に誘致した町内カーボンエ場の立ち直りに助力を与える
昭和56年(1981年)8月17日没、享年79
彌熊が読んだ数多くの蔵書や16mmフィルムによるイギリス留学時の映像などが残されており、その他藤崎家に残る古い書籍等合わせて「藤崎文庫」として整理中です。
藤崎ツネ
昭和の始め、玉名から赤松館六代目当主彌熊に嫁いだツネは、夫彌熊のイギリス・ケンブリッジ大学留学に伴い新婚時代をイギリスで過ごします。
帰国後は太平洋戦争を挟んだ苦難と困難の時代。ツネは、家事や家業・来客接待という忙しさに耐えた働き者でした。中でも江上トミが誉めそやすほど料理好きであったツネは、数々の料理のレシピをノートに記録し、味噌醤油の自家製から鰻の蒲焼・ローストビーフ・ライスカレー等、多岐にわたるもので腕を振るったそうです。