赤松館(せきしょうかん)は明治26年(1893年)、熊本県県南の大地主として財をなした藤崎家5代目当主藤崎彌一郎により建造されました。1,000坪の広大な敷地の周りを塀で囲み、敷地内に主屋・味噌蔵・長屋・篭部屋を建造し、周囲に池・庭園を造営した配置となっています。
赤松館の名前の由来は赤松太郎峠です。赤松太郎峠は天険として名高い三太郎峠(注1)の一つで、赤松館の座敷から庭の木立越しに望むことができ、それを庭園の借景としていました。その赤松(あかまつ)を赤松(せきしょう)と読み替え、館の名称としました。県南の地に文化人を招く迎賓館を作ろうとしたようです。
園田蘇門(注1)の手による設計図と棟札が残されており、棟札には「赤松館」の文字が書き記されています。
各所に銘木を用い、高い大工技術によって建造されている赤松館ですが、一階部分が完成し二階部分の内装に取り掛かった翌明治27年(1894年)、日清戦争が勃発。これにより赤松館の建造は中断を余儀なくされ二階部分は未完成のままの状態です。(中断後、内装がほどこされ、使用さていた部屋が一部屋だけ存在しています。)以来、藤崎家の住居として代々引き継がれ、今日に至っています。
建物のうち米蔵については、昭和7年に現在地に移築されています。米蔵の建造自体は明治7年で、昭和6年に発生した八代・天草・芦北を襲った地震のため解体・移築したものです。
平成12年(2000年)10月、「高い水準の大工技術を 有する近代和風建築である」として、主屋をはじめとする 9件の建造物を国の登録有形文化財に登録されました。
平成21年(2009年)11月、生きた文化財として一般公開を開始しました。
注1)三太郎峠・・・・・芦北地方は山が海にせまる地形でかねてより交通の難所として名高く、三つの険しい峠が立ちふさがっていたことから三太郎峠の名があります。(北から順に赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠)
注2)園田蘇門・・・・・竹崎茶堂の弟子で日新堂では教頭を務めた。郷里阿蘇で私塾を開き、多くの人材を育成した。詩人・俳人としても名高い。