熊本県葦北郡芦北町田浦にある明治時代に建てられた大地主の邸宅

食 料理研究家・江上トミ

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江上トミの料理の原点

藤崎家住宅「赤松館」の主屋には六連の大きなかまどが残されており、料理研究家として親しまれた江上トミの料理の原点として紹介しています。

江上トミ 食の故郷

  江上トミは明治32年、藤崎家五代目当主藤崎彌一郎の六女としてここ赤松館で生まれました。その後、母方江上家の養女となり江上姓を名乗ります。

  そして次のような記述を残しています。

「九州の熊本の旧家に生まれ育った私は、そこの山海の幸を母の手料理によって存分に味わいながら育ちました。私の幼年時代、少女時代のなつかしい想い出は、そうした料理に深く結びついております。フランスの文豪マルセル・プルーストの名作『失われた時を求めて』にもあるように、何か想い出の味にふれた時、まるでシンフォニーの様に想い出が湧き上るのです。文化の華としての料理、想い出の花束としての料理の深さを想い出と共に味わっていただきたいと願うのです。」と。

またこうも書いています。

「私は『海山のおいしい味』を母から充分に教わりました。幼い時に覚えたおいしい食の基準とでもいうものが、それからの私の料理の方向を決めたと云ってもいいのです。私の両親は特に意識して食生活の環境作りをしてくれたわけではないのですが、郷里の味がいつとはなしに私の身にしっかりとつき、私の生き方を左右することになったのです。その為に私はいつも郷土の料理に強い郷愁と愛情を持ちつづけています。」と。(「おもいでの味」江上トミ著より)

藤崎アサ 食の礎

江上トミの母アサは、先妻が亡くなった藤崎彌一郎の後妻として南関の江上家より藤崎家に嫁ぎます。母方の江上家は戦国武将の流れを受け継ぐ家柄。アサの父は京都から職人を呼んで食事を作らせるほどの食通だったそうです。その母からトミはいろいろな事を学びます。料理については八才の時、母から自分専用の包丁とまな板をあつらえてもらった、となつかしく思い返しています。

このことが熊本県の道徳の補助教材「くまもとのこころ 小学校1・2年」に「おかあさんのプレゼント」として記載されています。

藤崎ツネ 食の継承

藤崎家の食文化を受け継いだのがトミの弟彌熊の嫁ツネでした。

昔を記憶するお手伝いさんの思い出話によれば、ツネは家事・来客接待・果樹栽培などの忙しさに耐えた働き者で、中でもこと料理に関しては味噌醤油の自家製から鰻の蒲焼・ローストビーフ・ライスカレー等の多岐にわたるもので腕を振るい、味噌仕込みに必要な麹(こうじ)ねかせの時期は、夜中に起きて味噌蔵の温度を見に行っていたということです。

また次のようなエピソードが残っています。

終戦後数ヶ月を経過した頃、熊本市内に駐留していたアメリカ軍一行が芦北地方の視察に訪れると言うことで、彼らの視察が如何にうまく取り運ばれ、心証よくお引取り頂くかが、関連部署に取っての関心事だったようです。そこで、彼らの昼食の接待役を仰せつかったのが赤松館だったのです。

江上トミが誉めそやすほど料理好きであったツネは、入手難の中でやっと手に入れた牛肉塊一個を水炊きにしてコンソメスープを作り、炊き出したあとの肉塊を冷やしてコールドビーフとし、山椿の実から絞った椿油・酢・塩胡椒を混ぜ合わせてビネグレットソースを作り、薄切りにしたコールドビーフにかけて供したのだそうです。

軍政官以下の若い米国兵達が、「こんなにうまいものは始めて食った」と言って帰って行った・・と言うのが彌熊・ツネの自慢話しで、茶目っ気な一面も持ち合わせた夫妻でした。

諸事混乱の占領下で、米兵の舌を満足させた藤崎家の食文化でした。

赤松館百年伽哩

「カレー粉は舶来のCBがよい・・・」

ツネが書き記した料理のレシピのノートが残されており、そのなかの一つを再現したのが「赤松館百年伽哩」です。トッピングはレシピに書かれたオニオンフライ。レシピを再現したバター風味のやさしいまろやかな味のカレーと、現代風のスパイシーなカレーとの二通りの味が同時に楽しめます。

(カフェ米蔵:「赤松館百年伽哩」は夏休み期間の芦北伽哩街道期間中の限定メニューです)

 

 

 

 

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